椅子という発明

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座りすぎは、新しい喫煙である。この言葉を、ここ十年ほど、よく耳にするようになった。都会で一日中座って過ごす暮らしは、タバコと同じくらい体に悪い、と。

だが、これは正確ではない。

数字で見ると、座位と喫煙の害は、桁が違う。座りすぎと総死亡の関連は、よく見積もっても2割ほどの増加にとどまる。喫煙は3倍近く、本数の多い人では4倍を超える。超過死亡の数で比べれば、その差はおよそ10倍にひらく[1]。「喫煙と同じ」は、10倍に盛った誇張であり、むしろ健康の啓発そのものの信頼を損なうと、研究者から批判されてきた[1]。

では、ただの言い過ぎなのか。そうではない。座りすぎは、確かに、独立した健康リスクである。問うべきは、その害の大きさではなく、性質のほうだ。

害の正体は、座るという姿勢そのものにあるのではない。筋肉を完全に休ませたまま、長く動かずにいることにある。椅子に深く腰かけ、背もたれに身をあずけると、脚の筋肉はほとんど働かなくなる。筋が完全に弛緩すると、血中の脂肪を片づける酵素リポ蛋白リパーゼ(lipoprotein lipase、LPL)の働きが落ち、食後の中性脂肪が血中に長くとどまる。筋肉は、体で最大の糖の受け皿でもある。動かなければ、食後の血糖は下がりにくく、インスリンの効きも鈍る。問題は「座っていること」ではなく、「筋のスイッチが切れたまま、時間が流れること」なのだ。

ここに、進化とのずれがある。石器時代の体は、起きているあいだ、低い強度の筋の活動が途切れないことを前提に設計されていた。歩き、しゃがみ、立ち、また歩く。筋は、どこかで、たえず使われていた。椅子という発明は、この前提を、歴史のうえで初めて断ち切った。都市の暮らしは、起きている時間のなかに、筋をほぼ完全に休ませる時間を、長く、連続して作り出す。これは、進化史になかった状態である。

では、絶望すべきなのか。そうではない、という報告がある。100万人を超えるデータをまとめた研究では、1日およそ1時間の、中くらいの強度の活動が、長く座ることの死亡リスクを、ほぼ打ち消した[2]。座りすぎは、運動では取り返せない、死への招待状ではない。鍵は、動く総量よりも、座り続ける時間を途切れさせることにある。ではどう動けばよいのか。それは、稿を改めて書く。

では逆に、体を使う仕事ならば健康によいのか。必ずしも、そうではない。仕事での身体活動は、余暇の運動のような恩恵をもたらしにくい、という報告がある。ただしここには、どんな人がそうした仕事に就くか、という交絡が深く絡み、議論はまだ決着していない。深入りはしない。ここで言いたいのは一つ、動く「量」だけでは、健康は測れない、ということだ。

私たちは、動く量が足りないのではない。休み方と動き方が、体の設計とずれているのではないか。

座りすぎの害は、喫煙並みではない。だが、現代に固有の、独立したリスクではある。その正体は、座るという姿勢ではなく、筋を休ませきったまま、時間が長く連続することだ。だから向かうべき先は、特別な運動を足すこと以上に、まず、座り続けないことにある。1日のなかに、筋がときおり目を覚ます時間を、取り戻すこと。体は、動くことを信号として、自らを整えるようにできているのだから。

文献
[1] Vallance JK, Gardiner PA, Lynch BM, et al. Evaluating the evidence on sitting, smoking, and health: is sitting really the new smoking? Am J Public Health. 2018;108(11):1478-1482. https://doi.org/10.2105/AJPH.2018.304649
[2] Ekelund U, Steene-Johannessen J, Brown WJ, et al. Does physical activity attenuate, or even eliminate, the detrimental association of sitting time with mortality? A harmonised meta-analysis of data from more than 1 million men and women. Lancet. 2016;388(10051):1302-1310. https://doi.org/10.1016/S0140-6736(16)30370-1

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ジムの前に

前編で、座りすぎの害は、座るという姿勢ではなく、筋を休ませきったまま時間が長く続くことにある、と述べた。体は、動くことを信号として、自らを整えるようにできている。では、その信号を、どう灯せばよいのか。 タンザニアのハザ(Hadza)は、いまも狩猟採集で暮らす人々である。彼らは、ジムに通わない。にもかかわらず、心臓や血管の病を、ほとんど免れている。意外なことに、彼らが座ったり横たわったりして過ごす時間は、1日におよそ10時間に及び、先進国のオフィスワーカーと、ほとんど変わらない[1]。 違うのは、過ごし方だ。 ハザの身体活動は、狩り、採集、歩行、しゃがんでの作業といった、低いか中くらいの強度の動きが、1日じゅう、途切れずに続くことで成り立っている。まとまった激しい運動ではない。分散した、絶え間ない活動。そして休むときも、椅子に沈み込むのではなく、しゃがみ、ひざまずき、地面に座る。これらの姿勢は、脚の筋肉を、歩行の2〜4割ほど使い続ける[1]。前編の言葉でいえば、

By Yukihiko Kato

口という関門

これまで、皮膚を、腸を訪ねてきた。最後に訪ねるのは、口である。 口は、体のなかでも変わった場所だ。外界に開いた入口でありながら、同時に、消化管という長い管の始まりでもある。硬い面(歯)と軟らかい面(粘膜や舌)が同居する、体で唯一の場所でもある。歯の表面には、菌が自ら築くバイオフィルム(biofilm、菌がつくる膜状の集団)ー歯垢ーが張りつく。唾液に絶えず洗われながら、そこには多様で安定した生態系が保たれている。 この口の生態系が崩れるとき、何が起きるのか。そして、その崩れは、口のなかにとどまるのか。 手がかりは、歯周病(periodontitis)にある。成人の多くがかかる、ありふれた慢性の炎症性疾患だ。歯を支える組織が、じわじわと壊れていく。 長く、これは「悪い菌が増えて起こる病」と考えられてきた。だが、近年の見方は違う。 鍵をにぎるのは、菌の量ではなく、菌のふるまい方だ。Porphyromonas gingivalisという菌がいる。歯周病の患部にいるが、その数はごくわずかだ。にもかかわらず、

By Yukihiko Kato

腸という学校

前回は皮膚を、菌との関係が敵か隣人かで揺れる境界として見た。今度は、体の内側でいちばん大きな生態系に降りてゆく。 腸である。 皮膚が乾いた薄い被膜なら、腸は湿った濃密な発酵槽だ。大腸は、体でもっとも菌の密度が高い場所で、前述の俯瞰で触れた「150倍の遺伝子」の大半は、ここに由来する。また、腸の内腔(内側)は、位相のうえでは身体の外側にあたる。私たちは、外界と最も広い面積で接するこの境界を、菌に委ねて暮らしている。 では、その菌たちが腸で何をしているか?消化を助けている、というだけではない。腸は、免疫が「どこまで応じ、どこで鎮めるか」を習う、体内でもっとも大きな学校なのだ。 まず、腸の健やかさは、特定の善玉菌の有無ではなく、生態系全体の多様性と安定性によく表れる。皮膚編で「均衡」と呼んだものを、腸では「多様性」として引き継ぐ。多様な顔ぶれが揃い、互いに釣り合っているとき、腸の生態系は安定する。 では、その多様な菌は、何を介して免疫を教えるのか。 鍵は、菌の作る代謝物にある。腸内細菌は、

By Yukihiko Kato

敵か、隣人か―皮膚の三つの病

前回、私たちは無菌の器ではなく、覆われた生態系だと述べた。その生態系のなかで、いちばん目に見えるのが皮膚である。皮膚は、外界と隔てる一枚の膜ではなく、場所ごとに気候の違う一つの地形だ。脂の多い額と、湿った腋窩と、乾いた前腕とでは、棲む菌の顔ぶれが違う。脂の領域にはCutibacterium(旧Propionibacterium)が、湿った領域にはStaphylococcusやCorynebacteriumが勢力を張る。同じ一人の体の上に、いくつもの異なる生態系が同居している。 ここでは、皮膚科医として日々診るありふれた三つの病―膿痂疹、にきび、アトピー性皮膚炎―を通して、この生態系と菌との関係が、どこで、どのように変わるのかを見ていく。この三つは、並べる順そのものが一つの論証になる。菌との関係が、外からの侵入から、内なる均衡の乱れ、そして生態系そのものの崩壊へと、段階を追って移っていくからだ。 まず、膿痂疹。俗にとびひと呼ばれる病である。 これは、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)や化膿レンサ球菌(Streptococcus pyogenes)とい

By Yukihiko Kato