論考

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免疫レジリエンスとは何か(前編)

「免疫力を上げる」という言葉が、街にあふれている。食品の棚にも、健康記事の見出しにも、どこでも見つかる。そこには一つの素朴な前提がある。免疫とは力であり、力は強いほどよい、という米国的な前提である。だが臨床の現場に立つ者は、これに違和感を感じる。強い免疫がそのまま健康を意味するなら、医師の仕事の少なからぬ部分は説明がつかない。 考えてみたい。花粉のような本来は無害な相手に、涙と鼻水で激しく応戦してしまうのがアレルギーである。自分自身の組織を外敵と取り違えて攻撃してしまうのが自己免疫疾患である。ウイルス感染への反応が暴走し、守るべき臓器まで焼き尽くしてしまうのがサイトカインの嵐(cytokine storm)である。これらはいずれも、免疫が足りないのではなく、強すぎる―正確には、出力を制御できていない―ことから生じる病だ。免疫を一本の強弱の軸の上に置き、その軸を上へ上へと押し上げることが健康だとする見方は、ここで早くも行き詰まる。上げた先にあるのは、しばしば病のほうなのである。 行き詰まりは、もう一段深いところにもある。そもそも「守る」という働き自体が、一つではない。免疫学が長く中心

By Yukihiko Kato

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石器時代のからだで、都市に生きる

ヒトという種が、いまの遺伝的な設計をほぼ完成させたのは、農耕も都市も知らない時代だった。火を扱い、集団で狩り、採集し、よく歩き、空腹と充足のあいだを行き来する。からだの仕組み、すなわち代謝も、免疫も、概日リズムも、ストレス応答も、そうした環境のなかで磨かれてきた。問題は、その環境が、ここ一万年、とりわけここ数百年で根本から変わったことにある。にもかかわらず、わたしたちのからだの設計は、ほとんど変わっていない。進化の時間と、文明の時間は、桁が違う。 この隔たりを、ここではミスマッチと呼ぶ。石器時代に最適化された生物としてのヒトと、それが置かれた現代の都市環境とのあいだの、構造的な不一致である。座りつづける生活、人工的な光に区切られた一日、過剰で精製された食、慢性的で出口のないストレス、土や微生物との接触の喪失。これらはどれも、進化の歴史のなかでヒトが経験してこなかった条件であり、からだはこれらにうまく応答する術を、まだ持っていない。 このミスマッチが具体的な姿をとったものが、非感染性疾患(NCDs、non-communicable diseases)だと考えている。心血管疾患、が

By Yukihiko Kato

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進化の時計と、文明の時計

夜明け、窓の外で一羽の小鳥の澄んだ声が、薄明の空にひとつ、またひとつと音を重ねていく。その小さな喉の奥に、一億五千万年の時間が畳み込まれていることを、ふだん忘れている。かつて、羊歯の生い茂る原始の森を、羽毛をまとった獰猛な肉食恐竜が駆けていた。鋭い爪、長い尾、獲物を捉える眼。その系譜の末に、いま、朝の光を浴びてさえずる小鳥がいる[1]。獣からこの歌声へ。羽毛も、叉骨も、空を掴む翼も、何千万年という歳月をかけて、少しずつ組み上げられていった。その尺度からすれば、わたしたち人類が農耕を始めてからの一万年、産業化してからの二百年あまりは、指をぱちんと鳴らす瞬間にも満たない。 ここに、二つの時計がある。一つは、からだの設計図を書き換える、進化の時計。これは氷河期がいくつも巡るほどの、気の遠くなる遅さで動く。遺伝子が変化するには、無数の世代を通じた淘汰の積み重ねが要るからだ。もう一つは、わたしたちの暮らす世界が変わる、文明の時計。こちらは、ここ数十年で目まぐるしく回る。二つの時計の針は、もちろん同じ速さでは進まない。 医師として患者を診ていると、この時計のずれを、からだそのものの中に感じるこ

By Yukihiko Kato