免疫レジリエンスとは何か(前編)

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「免疫力を上げる」という言葉が、街にあふれている。食品の棚にも、健康記事の見出しにも、どこでも見つかる。そこには一つの素朴な前提がある。免疫とは力であり、力は強いほどよい、という米国的な前提である。だが臨床の現場に立つ者は、これに違和感を感じる。強い免疫がそのまま健康を意味するなら、医師の仕事の少なからぬ部分は説明がつかない。

考えてみたい。花粉のような本来は無害な相手に、涙と鼻水で激しく応戦してしまうのがアレルギーである。自分自身の組織を外敵と取り違えて攻撃してしまうのが自己免疫疾患である。ウイルス感染への反応が暴走し、守るべき臓器まで焼き尽くしてしまうのがサイトカインの嵐(cytokine storm)である。これらはいずれも、免疫が足りないのではなく、強すぎる―正確には、出力を制御できていない―ことから生じる病だ。免疫を一本の強弱の軸の上に置き、その軸を上へ上へと押し上げることが健康だとする見方は、ここで早くも行き詰まる。上げた先にあるのは、しばしば病のほうなのである。

行き詰まりは、もう一段深いところにもある。そもそも「守る」という働き自体が、一つではない。免疫学が長く中心に据えてきたのは、侵入してきた病原体を見つけ出して排除する力、すなわち抵抗(disease resistance)である。だが宿主が感染から身を守る方法は、それだけではない。病原体の存在を完全には消せなくても、それがもたらす組織の傷害を和らげ、感染した状態でもからだの働きを保ちつづける――この別の戦略を、メジトフ(Medzhitov)らは疾病耐性(disease tolerance)と呼び、感染防御において長く見落とされてきた防御のかたちだと論じた[1]。たとえば体内に同じ数の病原体を抱えていても、その傷害をうまく受け流せる個体は重症化を免れ、受け流せない個体は倒れる。生死を分けるのは、必ずしも敵を叩く強さではない。守りの方法は、敵を減らすこと、および、傷を最小にとどめることに分かれる。つまり「守り」さえ、単一の強弱では測れないのである。 

では、何を軸に据えればよいのか。

私が中心に置いている概念が、免疫レジリエンス(immune resilience)である。これは免疫を量ではなく、時間のなかで発揮される一連の能力として捉える見方だ。脅威を正しく察知すること。過不足なく、ちょうどよい強さで応答すること。そして役目が終わったら、速やかに平静へ戻ること。この三つの動き―気づき、応じ、戻る―が滞りなく巡るとき、免疫はもっとも健やかに働いている。強い・弱いではなく、しなやかに巡るかどうか。それが軸になる。

この三つのうち、最も見過ごされやすく、しかし決定的なのが、最後の「戻る」である。炎症が引いていくのを、私たちはつい、燃え尽きた線香が自然に消えていくような受動的な消退だと思いがちだ。だが近年の知見はそうではない。炎症の収束(resolution of inflammation)は、生体が能動的に進めるひとつのプログラムであり、専用の生理活性物質―特異的炎症収束性メディエーター(specialised pro-resolving mediators)―に導かれて、初めて達成される[2]。火を消すこともまた、火をつけるのと同じだけの仕事なのである。戻る力は、放っておいて戻るのではない。からだが働きかけて、初めて戻る。だからそれは破綻しうる。応答を始める力ではなく、応答を終えてもとに復する力こそが、レジリエンスの核心にある。

これを、私一人の思弁だと受け取ってほしくない。免疫レジリエンスは、近年、測定可能な概念として科学の俎上にのぼりつつある。アフージャ(Ahuja)らは、免疫の働きを保ち、あるいは速やかに回復させながら、同時に炎症を制御下に置く能力を免疫レジリエンスと定義し、これを高く保つ人ほど、年齢や感染やさまざまなストレスにさらされても、長く生き、病に強いことを大規模な解析で示した[3]。回復力という、一見やわらかな言葉が、寿命と予後を分ける硬い指標と重なってくる。私が臨床と研究のあいだで育ててきた見方は、こうして独立した科学的潮流と響き合っている。

ここまで来ると、このサイトの背骨にあたる一点が見えてくる。健康とは、強い免疫を持つことではない。しなやかに応じ、きちんと戻れる免疫を持つことである。そしてこの戻る力、巡る力は、生まれつき与えられて終わりというものではなく、環境のなかで鍛えられ、また環境のなかで消耗する。石器時代に形づくられた私たちのからだは、絶え間なく免疫を試され、そのつど鎮まる―そういうリズムを持つ環境を、あたりまえの前提としていた。都市は、そのリズムを狂わせる。

では、現代の暮らしの何が、この回復する力を養い、何がそれをすり減らすのか。免疫レジリエンスが具体的にどこで、どのように破綻していくのか。アレルギー性疾患を入口に、その破綻のかたちをたどるのが、後編の仕事である。ここではひとまず、軸を一つ、置き換えておきたい。強さから、しなやかさへ。

問いはそこから始まる。

文献

[1] Medzhitov R, Schneider DS, Soares MP. Disease tolerance as a defense strategy. Science. 2012;335(6071):936-941.

[2] Serhan CN. Pro-resolving lipid mediators are leads for resolution physiology. Nature. 2014;510(7503):92-101.

[3] Ahuja SK, Manoharan MS, Lee GC, et al. Immune resilience despite inflammatory stress promotes longevity and favorable health outcomes including resistance to infection. Nat Commun. 2023;14(1):3286.

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ジムの前に

前編で、座りすぎの害は、座るという姿勢ではなく、筋を休ませきったまま時間が長く続くことにある、と述べた。体は、動くことを信号として、自らを整えるようにできている。では、その信号を、どう灯せばよいのか。 タンザニアのハザ(Hadza)は、いまも狩猟採集で暮らす人々である。彼らは、ジムに通わない。にもかかわらず、心臓や血管の病を、ほとんど免れている。意外なことに、彼らが座ったり横たわったりして過ごす時間は、1日におよそ10時間に及び、先進国のオフィスワーカーと、ほとんど変わらない[1]。 違うのは、過ごし方だ。 ハザの身体活動は、狩り、採集、歩行、しゃがんでの作業といった、低いか中くらいの強度の動きが、1日じゅう、途切れずに続くことで成り立っている。まとまった激しい運動ではない。分散した、絶え間ない活動。そして休むときも、椅子に沈み込むのではなく、しゃがみ、ひざまずき、地面に座る。これらの姿勢は、脚の筋肉を、歩行の2〜4割ほど使い続ける[1]。前編の言葉でいえば、

By Yukihiko Kato

椅子という発明

座りすぎは、新しい喫煙である。この言葉を、ここ十年ほど、よく耳にするようになった。都会で一日中座って過ごす暮らしは、タバコと同じくらい体に悪い、と。 だが、これは正確ではない。 数字で見ると、座位と喫煙の害は、桁が違う。座りすぎと総死亡の関連は、よく見積もっても2割ほどの増加にとどまる。喫煙は3倍近く、本数の多い人では4倍を超える。超過死亡の数で比べれば、その差はおよそ10倍にひらく[1]。「喫煙と同じ」は、10倍に盛った誇張であり、むしろ健康の啓発そのものの信頼を損なうと、研究者から批判されてきた[1]。 では、ただの言い過ぎなのか。そうではない。座りすぎは、確かに、独立した健康リスクである。問うべきは、その害の大きさではなく、性質のほうだ。 害の正体は、座るという姿勢そのものにあるのではない。筋肉を完全に休ませたまま、長く動かずにいることにある。椅子に深く腰かけ、背もたれに身をあずけると、脚の筋肉はほとんど働かなくなる。筋が完全に弛緩すると、血中の脂肪を片づける酵素リポ蛋白リパーゼ(lipoprotein lipase、LPL)の働きが落ち、食後の中性脂肪が血中に長くとどま

By Yukihiko Kato

口という関門

これまで、皮膚を、腸を訪ねてきた。最後に訪ねるのは、口である。 口は、体のなかでも変わった場所だ。外界に開いた入口でありながら、同時に、消化管という長い管の始まりでもある。硬い面(歯)と軟らかい面(粘膜や舌)が同居する、体で唯一の場所でもある。歯の表面には、菌が自ら築くバイオフィルム(biofilm、菌がつくる膜状の集団)ー歯垢ーが張りつく。唾液に絶えず洗われながら、そこには多様で安定した生態系が保たれている。 この口の生態系が崩れるとき、何が起きるのか。そして、その崩れは、口のなかにとどまるのか。 手がかりは、歯周病(periodontitis)にある。成人の多くがかかる、ありふれた慢性の炎症性疾患だ。歯を支える組織が、じわじわと壊れていく。 長く、これは「悪い菌が増えて起こる病」と考えられてきた。だが、近年の見方は違う。 鍵をにぎるのは、菌の量ではなく、菌のふるまい方だ。Porphyromonas gingivalisという菌がいる。歯周病の患部にいるが、その数はごくわずかだ。にもかかわらず、

By Yukihiko Kato

腸という学校

前回は皮膚を、菌との関係が敵か隣人かで揺れる境界として見た。今度は、体の内側でいちばん大きな生態系に降りてゆく。 腸である。 皮膚が乾いた薄い被膜なら、腸は湿った濃密な発酵槽だ。大腸は、体でもっとも菌の密度が高い場所で、前述の俯瞰で触れた「150倍の遺伝子」の大半は、ここに由来する。また、腸の内腔(内側)は、位相のうえでは身体の外側にあたる。私たちは、外界と最も広い面積で接するこの境界を、菌に委ねて暮らしている。 では、その菌たちが腸で何をしているか?消化を助けている、というだけではない。腸は、免疫が「どこまで応じ、どこで鎮めるか」を習う、体内でもっとも大きな学校なのだ。 まず、腸の健やかさは、特定の善玉菌の有無ではなく、生態系全体の多様性と安定性によく表れる。皮膚編で「均衡」と呼んだものを、腸では「多様性」として引き継ぐ。多様な顔ぶれが揃い、互いに釣り合っているとき、腸の生態系は安定する。 では、その多様な菌は、何を介して免疫を教えるのか。 鍵は、菌の作る代謝物にある。腸内細菌は、

By Yukihiko Kato