ホモサピエンスという生態系

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私たちは自分のからだを、皮膚という一枚の壁で外界から隔てられた、内も外もない、中身の詰まった塊として思いがちだ。だが、その像は正確ではない。消化管は、口から肛門まで貫く一本の管である。その内腔は、位相のうえでは身体の「外側」にあたる。食べたものがからだの本当の内側に入るのは、腸の壁を通り抜けたそのときであって、それまでは、からだを貫く外のやわらかいトンネルを進んでいるにすぎない。皮膚も、口の中も、腸の内側も、肺の奥も、外界に開いたこれらの面には、ことごとく微生物が住み着いている。私たちは、閉じた塊ではなく、覆われた表面の集まりなのだ。

かつて、しばしば語られてきた数字がある。

微生物はヒトの細胞の10倍いる、という言い方である。

この「10対1」は長く広く引用されてきたが、たどってみると、1972年の一つの概算に行き着く、確かな計測に支えられない見積もりだった。近年、丁寧に数え直され、比はおよそ1対1に修正されている。70kgの標準的な成人男性で、細菌はおよそ38兆個、ヒト細胞はおよそ30兆個。細菌の総質量は、合わせてもおよそ0.2kgにすぎない[1]。私たちは、細胞の数のうえで微生物に圧倒されているわけではなかった。

だが、数えるものを、細胞から遺伝子に移すと、桁が変わる。ヒト細胞数のおよそ9割は造血系の細胞、その大半は赤血球が占めていて、核を持たないので遺伝子もない。一方、腸内細菌の遺伝子を集めた目録には、およそ330万の遺伝子が並び、これはヒト自身の遺伝子のおよそ150倍にあたる。そしてその99%以上が、細菌に由来する[2]。私たちは、自前のゲノムのほかに、その150倍もの遺伝情報を、外部の生きものに委ねて暮らしている。暮らしを支える遺伝子の目録において、私たちは、微生物という巨大な図書館に綴じられた、ごく薄い一冊にすぎない。

この覆い、すなわち私たちに共生する微生物の総体―近年マイクロバイオーム(microbiome)と呼ばれるもの―は、どこも同じ一様な膜ではない。皮膚には皮膚の、口の中には口の中の、腸には腸の、それぞれ顔ぶれの違う生態系がある。脂の多い額と、湿った腋窩と、乾いた前腕とでは棲む菌が違い、口腔と腸とでは、均衡の作り方も、崩れ方も異なる。外界に触れるほとんどの面に住んでいるとはいえ、たとえば肺のように、菌がごく希薄で、そもそも常在菌叢と呼べるものがあるのか、測り方をめぐる議論がまだ続いている場所もある。だからここでは、生態系としてよく見えている皮膚、口腔、腸という三つを、主に見ていくことにする。これから一つずつ訪ねるのは、この三つの、それぞれに固有の生態系である。

ここで、その関係の性質を、言葉を選んで確かめておきたい。微生物とヒトの関わりを、まとめて「共生」と呼び、みなが仲良く助け合っているかのように語るのは、実はあまり正確ではない。多くはおそらく片利共生(commensalism、片方が利を得て、もう片方は損も得もしない関係)にとどまり、双方が利を得る相利共生(mutualism)は、その一部でしかない。しかも同じ菌が、状況しだいで、境界を守る味方にも、境を越えて害をなす相手にもなる。関係は、固定した役割ではなく、絶えず調整される交渉なのだ。だから、微生物を一律に「善玉」と呼ぶことも、「悪玉」と呼ぶことも、この生態系の実相とは異なる。

そして、この生態系は、私たちのからだの背景に置かれた飾りではない。免疫と、絶え間なく言葉を交わしている。ある見方によれば、免疫とは、ヒトの細胞と微生物の細胞を一つの共同体につなぎとめる仕組みにほかならない。免疫の秩序に従う微生物は、この共同体の一員―いわば市民―として迎え入れられ、その制御を逃れて勝手にふるまう者は、病原体となり、あるいは癌となる[3]。中編の、旧友がまず自然免疫を訓練するという話も、この大きな見取り図のなかに置き直せる。旧友との対話を通じて、免疫は、誰を市民として迎え、どこで線を引くかを、学んでいく。

ここまで来ると、一つの問いが立ち上がる。

私たちが「一匹の動物」と呼び、一個の個体として数えてきたものは、はたして本当に一個の個体なのか。それとも、宿主と、おびただしい共生微生物とが分かちがたく結びついた、一つの歩く生態系―ホロビオント(holobiont、宿主と持続的な共生微生物をひとまとまりにした単位)―なのか。ある研究者たちは、解剖学的にも生理学的にも、動物は自律した個体とはみなせないとして、「私たちは一度も個体であったことがない」とまで言い切った[3]。発生も、代謝も、免疫も、微生物なしには完成しない。とすれば、個体という単位そのものの見直しを迫られることになる。

だが、これにはひとつ別の見方がある。

ホロビオントを、構造や生理や免疫の単位として、また「個体とは何か」を問い直す単位として使うことと、それを一個の進化の単位―宿主と微生物のゲノムを合わせたホロゲノム(hologenome)が宿主の利益のために一体で進化していく単位―とみなすことは、別の話だ。 

後者には有力な批判がある。微生物は、宿主と古く親密な関係を結んでいても、宿主の利益になるように選択されてきたとはかぎらず、垂直にも水平にも、環境からも入れ替わるため、宿主とひとまとまりの選択の単位とは扱えない、という批判である[4,5]。だから、私たちが一つの生態系で、一個の進化する個体だ、とまで言い切れないことになる。

最後に、私たちの文化がすでに描いていた一つの像を、そっと重ねておきたい。「風の谷のナウシカ」の腐海(ふかい)である。人々は、瘴気を吐くその菌類の森を、毒として恐れ、焼き払おうとする。だがやがて、腐海こそが、汚染された大地を静かに浄化していることが明かされる。毒と見なして根絶しようとしたものが、じつは生を支える仕事をしていた。これはもちろん物語である。けれども、清潔さのために微生物を遠ざけることが、かえって私たちの均衡を崩すのではないか、という問いと重なるところがある。

私たちは、無菌の器ではない。外界に開いたすべての面を微生物の生態系に覆われた、それ自体が一つの生態系である。だとすれば、健康とは、微生物のいない清潔さのことではない。その生態系が、豊かに、釣り合いを保っていることのほうを指すはずだ。これから訪ねる皮膚、口腔、腸は、その釣り合いが、それぞれの場所で、どのように保たれ、どのように崩れるのかを見せてくれる。

文献

[1] Sender R, Fuchs S, Milo R. Revised estimates for the number of human and bacteria cells in the body. PLoS Biol. 2016;14(8):e1002533.

[2] Qin J, Li R, Raes J, et al. A human gut microbial gene catalogue established by metagenomic sequencing. Nature. 2010;464(7285):59-65.

[3] Gilbert SF, Sapp J, Tauber AI. A symbiotic view of life: we have never been individuals. Q Rev Biol. 2012;87(4):325-341.

[4] Moran NA, Sloan DB. The hologenome concept: helpful or hollow? PLoS Biol. 2015;13(12):e1002311.

[5] Douglas AE, Werren JH. Holes in the hologenome: why host-microbe symbioses are not holobionts. mBio. 2016;7(2):e02099-15.

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腸という学校

前回は皮膚を、菌との関係が敵か隣人かで揺れる境界として見た。今度は、体の内側でいちばん大きな生態系に降りてゆく。 腸である。 皮膚が乾いた薄い被膜なら、腸は湿った濃密な発酵槽だ。大腸は、体でもっとも菌の密度が高い場所で、前述の俯瞰で触れた「150倍の遺伝子」の大半は、ここに由来する。また、腸の内腔(内側)は、位相のうえでは身体の外側にあたる。私たちは、外界と最も広い面積で接するこの境界を、菌に委ねて暮らしている。 では、その菌たちが腸で何をしているか?消化を助けている、というだけではない。腸は、免疫が「どこまで応じ、どこで鎮めるか」を習う、体内でもっとも大きな学校なのだ。 まず、腸の健やかさは、特定の善玉菌の有無ではなく、生態系全体の多様性と安定性によく表れる。皮膚編で「均衡」と呼んだものを、腸では「多様性」として引き継ぐ。多様な顔ぶれが揃い、互いに釣り合っているとき、腸の生態系は安定する。 では、その多様な菌は、何を介して免疫を教えるのか。 鍵は、菌の作る代謝物にある。腸内細菌は、

By Yukihiko Kato

敵か、隣人か―皮膚の三つの病

前回、私たちは無菌の器ではなく、覆われた生態系だと述べた。その生態系のなかで、いちばん目に見えるのが皮膚である。皮膚は、外界と隔てる一枚の膜ではなく、場所ごとに気候の違う一つの地形だ。脂の多い額と、湿った腋窩と、乾いた前腕とでは、棲む菌の顔ぶれが違う。脂の領域にはCutibacterium(旧Propionibacterium)が、湿った領域にはStaphylococcusやCorynebacteriumが勢力を張る。同じ一人の体の上に、いくつもの異なる生態系が同居している。 ここでは、皮膚科医として日々診るありふれた三つの病―膿痂疹、にきび、アトピー性皮膚炎―を通して、この生態系と菌との関係が、どこで、どのように変わるのかを見ていく。この三つは、並べる順そのものが一つの論証になる。菌との関係が、外からの侵入から、内なる均衡の乱れ、そして生態系そのものの崩壊へと、段階を追って移っていくからだ。 まず、膿痂疹。俗にとびひと呼ばれる病である。 これは、黄色ブドウ球菌(Staphylococcus aureus)や化膿レンサ球菌(Streptococcus pyogenes)とい

By Yukihiko Kato

免疫レジリエンスとは何か(後編)

中編の最後に、一つの問いを残した。カレリアもアーミッシュも、旧友との接触がアレルギーを防いでいた。だが効いていたのは、大人になってからの環境ではない。差は、人生のごく早い時期に刻まれていた。では、その決定的な時期は、いつか。そして、なぜそれほど早くに決められたものが、生涯にわたり続くのか。 この問いに正面から答えるのが、DOHaD(Developmental Origins of Health and Disease、健康と疾患の発生起源)という考え方である。胎児期から乳児期という発生のごく初期に受けた環境が、その時期にからだの基本設定を方向づけ、生涯にわたる健康や疾患のかかりやすさを決める。もとは、低出生体重の子が成人後に生活習慣病になりやすいという観察から始まった枠組みだが、その射程はもっと広い。ここでは、二つの人間の記録が、この考え方を鮮やかに、そして重層的に示している。 一つは、オランダの飢餓の冬(Dutch Hunger Winter)である。第二次世界大戦末期の1944年から1945年にかけて、ドイツ軍の封鎖により、それまで十分に食べていたオランダ西部が、突然の飢餓に陥

By Yukihiko Kato

免疫レジリエンスとは何か(中編)

前編で、免疫を強弱ではなく、察知し、過不足なく応答し、そして役目を終えたら鎮まる、という一連のしなやかさとして捉え直した。では、その鎮める力は、どこで身につくのか。生まれつき完成して備わっているのではないとすれば、何が育てるのか。あるいは、何がこわすのか? この見立てからすると、アレルギーは鎮める力がうまく働かない状態の典型である。花粉のような無害な相手に応答し、しかもその応答が止まらない。過剰に応じ、戻れない。アトピー性皮膚炎も、皮膚という境界で、この鎮まらなさが慢性の炎症として現れたものと見ることができる。問題は、なぜ現代で、この鎮める力の破綻がこれほど増えたのか、である。 かつて、その答えは衛生仮説(hygiene hypothesis)と呼ばれた。清潔になり、感染症が減ったから、免疫が退屈して無害なものに矛先を向けるようになった、という筋である。分かりやすいが、これは正確ではなかった。都市の子どもは、ありふれた小児感染症にむしろ多くさらされているのに、アレルギーは田舎の子より多い[1]。感染の多寡では説明がつかない。そこで、より正確な見方へと更新された。旧友仮説(old f

By Yukihiko Kato